「最期をどう迎えるか ― 100人いれば100通りの看取り」シリーズ

訪問するたびに、その方は同じことを口にされました。
「死ぬのが怖い」
何度訪ねても、その言葉は変わりませんでした。
個人が特定されないよう、事例の一部を変更しています。
私に言えたのは、それだけでした
そう言われたとき、私はとっさに、その方の背中をさすっていました。
「そうですよね。怖いですよね。
経験したことないですもんね……」
返せたのは、それだけです。
背中をさすろうと考えたわけではありません。
私自身、不安なときに背中をさすってもらうと安心します。だからでしょうか。自然と手が動いていました。
ケアマネジャーとして20年。
制度のことなら説明できます。サービスの調整もできます。
でも、この問いへの答えは、私にはありません。
励ますことも、できませんでした
「大丈夫ですよ」とは言えません。何が大丈夫なのか、私には分からないからです。
「みなさん、そうおっしゃいますよ」も違う気がしました。その方にとっては、みなさんの話ではありません。自分のことです。
気の利いたことを言おうとするほど、嘘になる気がする。
だから、「そうですよね」としか言えませんでした。
それでも、同じ言葉を聞くうちに
訪問のたびに聞くのは、同じ言葉でした。私にできるのも、そのたびに同じように返すことだけ。
でも、それを繰り返しながら、ずっと考えていました。
私には答えられない。それなら、この方がこれまで大切にしてきたものの中に、支えになるものはないだろうか。
お寺に、相談しました

その方の家には、昔からご縁のあるお寺がありました。
ご家族に相談して、住職さんに来ていただくことに。
住職さんは家に来て、その方と二人で話をしてくださいました。
何を話されたのか、私は知りません。ご家族も同席せず、ふたりだけの時間にしました。
その後のこと
正直に書きます。
それで「死ぬのが怖い」という言葉がなくなったわけではありません。その後も、ときどき口にされていました。
住職さんは、時々来てくださるようになりました。
そして、その方の表情は、少し穏やかになりました。
少し、です。何かが解決したわけではありません。
答えられないことが、ある
この仕事をしていると、答えを求められます。
費用はいくらか。
どんなサービスが使えるか。
夜中に何かあったら、どうするか。
そういうことには答えられます。
でも、「死ぬのが怖い」には答えられません。20年やっていても、答えを持っていません。おそらく、これからも持てないと思います。
それでも、できることはあったのかもしれない
あのとき私がしたのは、答えを出すことではありませんでした。
その方が何を大切にしてきたのかを考えて、そこに支えになるものがないか探した。それだけです。
住職さんが何をしてくださったのか。その方の中で何が起きたのか。どちらも私には分かりません。
でも、表情が少し穏やかになった。私に見えたのは、それだけです。
あとで、その方が言ったこと
住職さんが来てくださるようになって、しばらく経ったころ。
その方が、こんなことを言われました。
「お坊さんの話もありがたかった。
それと同じくらい、ケアマネさんが背中をさすってくれたことが安心した。
病院では治療が優先で、手を触れてくれることもなかったから」
あのとき、とっさにさすっただけのことです。覚えていてくださるとは、思ってもいませんでした。
触れてくれることが、どんなに支えになったか
「触ってもらえることが、どれだけ気持ちの支えになったか」
その方は、そう話してくださいました。
病院にいたときのことも聞きました。
その方にとって病院で過ごした時間は、人の手に触れてもらうことの少ない時間でもあったのでしょう。
答えていないと、思っていました
私はずっと、あの問いに何も答えられなかったと思っていました。言葉を持っていなかったからです。
でも、その方にとっては違ったようです。
気の利いたことは、何ひとつ言えなかった。ただ、そばにいて、背中に手を当てていた。
それも、返事のひとつだったのかもしれません。
関わる人たちに、そのまま伝えました
その方の言葉を、関わっている人たちにも伝えました。訪問看護師さん、主治医、ヘルパーさん。

「触れられることが、この方にとって支えになっているようです」
それから、みなさんの関わり方が少しずつ変わっていきました。
話しながら、そっと手を握る。
「おなかは痛くないですか」と、お腹に手を当てて確認する。
背中をさすりながら、様子をうかがう。
特別なことをしたわけではありません。いつもの関わりの中に、触れる時間が少し増えただけ。
でも、そんな時間が少しずつ積み重なっていきました。
怖いと言われたら
もし、大切な人から「死ぬのが怖い」と言われたら。
気の利いたことを言えなくても、いいのだと思います。「大丈夫」も「みんなそうだよ」も、たぶん求められていません。
そうだよね、怖いよね。そう言いながら、そばにいる。
もし、その方が触れられることで安心できる人なら、そっと手を握る。言葉以外にも、できることがあるのかもしれません。
そして、その方が大切にしてきたものにも目を向けてみる。
会いたい人。
行きたかった場所。
ずっと続けてきたこと。
その人が、長い人生の中で大切にしてきたもの。そこに、何か支えになるものがあるかもしれません。
あの方にとって、それは昔からご縁のあるお寺でした。
何を話されたのか、今でも私は知りません。ただ、少し穏やかになった表情と、あのときの言葉だけは覚えています。
その立場になってみないと、分からないことがある
あのとき私が学んだのは、たぶんこれです。
背中をさすられることが、あれほど支えになるとは思っていませんでした。言葉だけではなく、手から伝わるものもある。それは、その立場になってみないと分からないことでした。
考えてみると、高齢の方が誰かに手を握られたり、背中をさすってもらったりする機会は、そう多くないのかもしれません。
介助のために体に触れることはあります。でも、
用があるからではなく、ただ触れる。
そんな時間は、意外と少ないのかもしれません。
看取りの時期になって、初めてそうされる。それでは、遅いのかもしれない。
だから、この記事を書きながら思っています。
うちの母にも、してあげよう。

背中をさする。
手を握る。
それだけのことです。
何かがあってからではなく、今のうちに。





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