
朝、親に冷たく答えてしまった。家を出てから、あの言い方はなかったなと思う。
そういう朝、ありませんか。
今日の私が、それでした。ケアマネジャーとして20年、認知症のご家族に「決めつけないでください」と話してきた人間が、自分の家で真っ先にそれをやりました。
その朝、台所で起きたこと

母に薬を飲ませるときでした。母が私の顔をじっと見て、話しかけてきました。
「朝ごはん、なんだっけ」
仕事に行く前で、やることが山ほどあって、私はぴりついていました。
「? 私がいつも準備してるじゃん」
母が言いました。
「茶碗に盛ったごはん?」
「ご飯ってそういうものだけど、違う。今日はパンだよ」
少し間があって、母がぽつりと言いました。
「……話もできないじゃん」
母の言葉は、間違っていなかった
あとになって気づきました。
「茶碗に盛ったごはん?」
これは、混乱した人の言葉ではありませんでした。
日本語の「ごはん」には、白いご飯そのものを指す意味と、食事全体を指す意味があります。母は、どちらの意味なのかを確認しようとしていたのかもしれません。
私はそれを「認知症の人の、要領を得ない発言」として処理しました。
理解できなかったわけではありません。
理解しようとしなかった。
会話を早く終わらせたかった。それだけでした。
決めつけていたのは、私のほうだった
認知症という前提を先に置くと、その人が発する言葉が、全部「症状」に見えてしまうことがあります。
本当は普通の質問なのに。
何かを確認したいだけなのに。
こちらが勝手に意味を取りにいかなくなる。
私たちが普段使っている言葉の言い回しと少し違うだけで、「認知症だから」と、そこで考えることをやめてしまう。
ケアマネとしての自分と、娘としての自分
仕事では「その方の言葉には理由があります」と説明しています。研修でも話します。それでも家では、朝の5分が惜しくて、母の言葉を最後まで受け取りませんでした。知識があることと、できることは別です。

なぜ母が話しかけてきたのかは、今も分からない
ぴりついている私を和ませようとしたのか。
忙しいのに面倒をかけて申し訳ないと思ったのか。
ただ、話したかっただけなのか。
分かりません。聞いてもいません。
分かっているのは、母が私の顔をじっと見て、話しかけてきたという事実だけです。
それは、人として普通の行動でした。
自分を責めるだけでは、明日の朝は変わらない
ここが大事なところだと思っています。
朝で、時間がなくて、仕事の前で、余裕がない。そんな条件が重なると、普段ならできることができなくなることがあります。私もそうでした。
反省だけで終わらせても、明日の朝、また同じことが起きるかもしれません。だから私が決めたのは、ひとつだけでした。
認知症だと決めつけずに、母が発した言葉の意味を、いったん考える。
毎回はできません。忙しい朝に毎回できると言ったら嘘になります。それでも、いったん考える。それだけを持ち帰ることにしました。
私は、認知症の人を見ていて、こちらが思うよりずっと分かっているのではないかと感じることがあります。言葉にすることが難しくなっても、忘れてしまったように見えても、その人の中には残っているものがあるのではないか。20年、介護の現場にいて、そう思わされる場面を何度も見てきました。
でも、本当にどこまで分かっているのかは、私には分かりません。
だからこそ、「認知症だから分からない」とこちらが先に決めてしまわないこと。それだけは忘れたくないと思っています。
カメラの向こうの母に

そして今日も、いつもどおり仕事に行きました。
職場で見守りカメラを開くと、母が映っていました。いつもの場所に座っていました。
画面に向かって、「ごめんね」と言いました。
母には聞こえていません。カメラには話しかける機能がついていますが、母にはそのことを伝えていないので、使ったことがないのです。
届かないと分かっているところで謝る。ずるいな、と自分でも思います。
それでも、今朝のことを何もなかったことにはしたくありませんでした。
同じ朝を過ごした人へ
親に冷たく答えてしまった朝があったとしても、その一度だけで、自分は冷たい人間なんだと決めなくていいと思います。
ただ、その人の言葉を最後まで聞く余裕が、その朝はなかった。
私もそうでした。
明日の朝、母がまた何か話しかけてきたら。その言葉を「認知症だから」で終わらせる前に、ほんの一度だけ、
「何を言おうとしているんだろう」
と考えてみようと思います。
たぶん、またできない朝もあります。
それでもいい。
今日の私は、母の「……話もできないじゃん」という一言で、そのことに気づけました。


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